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科学正論:人類の幸せは科学技術のためにあるべきである。

時々「科学技術は人類の幸せのためにある。」という, 天動説のようなことを主張する方がいる。 また,「科学技術が人間を幸せにしない」ときに, 「科学技術が間違っている」と考える人が多いが, なぜ「幸せが間違っている」と考えないのだろうか? これから何ページかを使って, 人間が存在する理由やするべきことをできるだけ客観的に考え, 「人類の幸せは科学技術のためにあるべきである」ことを主張するが, 「幸せは何のためにあるのだろうか?」,「幸せは何のためにあるべきなのだろうか?」 を考えながら読んでもらえればと思う。

もちろん,応用技術については人間の幸せのためにあるという一面もある。 しかし,科学や基本的な技術については,そうとは考えられない。 なぜならば,幸福になるための条件には時間的,空間的普遍性がない。 まず,時代と共に変わっている。 少し前ならば,白い米が食べられるだけで幸福だった方々もいたし, 泥水のような五右衛門風呂でも喜んでいたのである。 環境が変われば,例えば科学技術の進歩により人間が使うことができるエネルギーの量が変われば, 同じ人間でも幸福になるための条件は変わるだろう。 また,幸福はかなり相対的なものである。 幸福感を得るためには,人より優れていなくてはいけなかったり, より多く持っていなければいけなかったりする。 オリンピックの100m走だって, 10秒切っていればみんな金メダルでも良さそうなものだが, そうはならない。 自動車だって,現在のサニーならば全く十分なのに, 5人乗りで6000ccの車まで存在するのである。 やはり,幸福になるための条件は周囲の人々の状況に大きく左右されることになる。

人間が(不)幸福感を得る条件は,遺伝子やミーム(考え方)によって規定され, 人間の行動の基準となってきた。 そして,別のページで詳しく述べるが, 現在の(不)幸福感を得る条件を規定する遺伝子やミーム(考え方)を持つ人間が, その他の(不)幸福感の条件をもつ人間よりも生存に有利という理由で決められている。 したがって,科学技術が進歩し, 例えば科学技術の進歩により人間が使うことができるエネルギーの量が変われば, 人間の生存に有利な条件が変わり, 人間の遺伝子やミームが変わることになり,(不)幸福感を得る条件も変わっていくことになる。 (この項と前項の話は似ているが, 前項では環境によって同じ人間でも幸福になるための条件が変わると, この項では環境によって人間自体が変わり(不)幸福感を得る条件が変わると主張している。)

もちろん,科学技術によって,少なくとも日本では客観的に見た「不幸」は減少している。 例えば,少し前までは人口構成はピラミッド型であり平均年齢は50才以下である。 これは,若いうちから1パーセント以上の確率で人が死ぬことであり, かなり大変なことであると思われる。 それでも,最近の環境破壊をみて,昔の生活に戻った方がいいとか言う人が現れる。 そのくせに,なんだかんだ言いながら,結局は昔の不幸には自分からは戻らない。 科学技術を使って,不幸な状況から脱却し幸福が得られたとしても, すぐに当たり前になって幸福「感」を感じなくなって,不幸と考えてしまう。 また,「人より」という点も問題である。 あるものをみんなが持ってしまったら,価値がなくなってしまうというならば, いつまで経っても終わりがない。永久にさらに良いものを求め続けるしかない。 麻薬が効かなくなり,さらに強い麻薬を求めることと同じである。

「科学技術」が麻薬みたいなものだと考える人もいるが, そうではなく,はじめに普遍性のない「幸福」ありきであるからいけないのである。 ころころ変わる評価基準を指針にしていいことがあるわけがない。 評価基準でプラスだったものが0になったり, 0であったものがマイナスになったりして, 結局,「幸福」を得ようとするすべてのことが,麻薬みたいなものと見えてしまうのである。 科学技術によって「幸福」が変わるのに,科学技術は幸福のためにあるというのは, テレビのディレクタがヘルメットについたカメラに向かと指示しているのと変わらない。 そんな指示ではどこに行くかわからない。 別のページでの述べる人口問題などを考えれば, 幸福感を追求していくと,将来物質的に人間世界が破綻してしまうと考えられる。

こんなもの(幸福)につき合わされる「科学技術」は,まさに不幸である。 もちろん,この終わりのない幸福感の追求が,今まで生存を有利にしてきたのである。 過去には,多夫多妻であった。 これは,多様性の中から多種類の子供が生まれ, その中から生存に適するものが生き残ることによって, 進化を加速させることができたからである。 それが一夫一婦に変わった理由は,推測になるが, 道具や農業などの技術の進歩によって, 人口が増えるとともに人々の移動が活発になってきたため, 伝染性の病気が深刻な問題となったためと考えられる。 多夫多妻の社会では集団に病気が蔓延しすぐに滅んでしまう。 おしどり夫婦という言葉があるが,おしどりの夫婦の結びつきが強い理由も, やはり性病のためと言われている。 伝染性の病気のため, 一夫一婦に近い状態を好むような感情(男女愛など)を生み出す遺伝子が, 多夫多妻を好むような感情を生み出す遺伝子より有利になり,現在に至っているのである。

このような人間の「幸福」と科学や基本的な技術とどちらが普遍的かは, 考えるまでもなく明らかである。 科学の法則は,基本的には宇宙のどこでもいつでも成立するもの (成立しなくてはいけないもの)であり, ニュートンの法則,アインシュタインの法則,アンペアの法則など, 近似が成立する範囲の中では, 人間の「幸福の条件」がどんなに変わろうとも,どれも変わるものではない。 基本技術もまたそうである。 文明を持っている宇宙人ならば, 材料・構造・情報処理などの基本的な技術は身につけているはずである。 これらがなければ,原始的な生活をする他はなくなる。 普遍性のあるもの(科学と基本的技術)が, 普遍性のないもの(幸福)に依存しているという主張は不自然である。 なぜなら,状況の変化(例えば,使用できるエネルギーの変化)に対して不変でなくなるからである。 すなわち,「科学や基本的な技術が人間の幸福のためにある」のならば, 人間の幸福が変われば科学や基本的な技術も変わらなくてはいけないことになり, 科学の普遍性の高さと矛盾してしまう。

「科学技術は人類の幸せのためにある。」の主張がおかしいことはなんとなくわかったのではないかと思う。 その主な理由は,何度も繰り返しているが,人間の「幸福」の普遍性は低く, その条件がいつでもどこでも成り立つものではないからである。 この反対「人間の幸せは科学技術のためにあるべきである。」は, 「人口を抑制し文明的な生活を続けていくためには,遺伝子操作などによる人間の改造が必要である。」「人間は自然を破壊する(エントロピーを増大する)ために生まれてきた。」「自然は人間の敵なのか。」の後の, 「だからこそ,『人類の幸せは科学技術のためにあるべきである。』」で説明する。 人間の幸福を基準に,未来を追求することは早晩行き詰まる。 それに変わる普遍性の高い評価基準を人類は探す必要がある。 そして,その普遍な目標に向かって幸せを設計する必要があるのである。


(2013/1/12,2013/2/2,2013/3/22,2013/7/10(天動説と地動説を反対にしていました)改訂)
Yukihiko Yamashita (yamasita@ide.titech.ac.jp)